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デザインが雑巾の絞り汁にしか思えなくなっていたあの頃

20代半ばだった私は、新たなステージを目指して転職を試みた。
前職は新卒で入った会社で、私は不遜にも「入会金0円キャンペーン」の折込チラシばかり作ることに飽き飽きしていた。

転職先は社員3名ほどの小さな広告制作事務所。小さいながらも業績は華々しく、大手企業のポスターや広告賞を取るような作品の数々が私を魅了した。
人の心を動かすような広告を作るのは、きっと刺激的で面白いだろう。それだけで深く考えもせず飛び込んだ私は、なんの覚悟もなかったし甘ちゃんだった。

入ってみればそこは、ひとりのアートディレクターによる恐怖政治に支配されていた。
大きめの広告代理店に在籍する彼の言うことは絶対で、逆らうことは許されなかった。

その人の実力は確かにすごいものだった。広告のコンセプトを練り上げ、言外に絵でメッセージを伝えることに長けていた。
膨大なアイデアの中から説得力のある案を選び出し、妥協せずストイックに、絵作りにこだわり抜いた。
スタッフは日々、大量のアイデアスケッチを描き、1mm刻みのデザインバリエーションを壁にびっしりと掲示してジャッジを待った。

ポンコツなアイデアは冷笑された。不機嫌な時はものすごく怖かった。
目の前で同僚が土下座させられたこともあった。

ミスは許されないし妥協もしないので、徹夜はあたりまえだった。
23時にあがれたら早い方、終電かタクシーが普通。冬に事務所の床で寝るときはダウンコートが寝袋の代わりだった。そのうち専用の寝袋を買ってもらった。

そのアートディレクターにとって、事務所の社長は「使えるやつ」だった。
隣の席の同僚は「使えないやつ」に認定されて仕事を干されがちで、ときどきあからさまに嫌味を言われていた。
私はとにかく機嫌を損ねないように立ち回り、表面上は媚びへつらって「そこそこ使えるやつ」のポジションで扱われた。女だからという手加減もあったのかもしれない。おかげで殴られもせず丸刈りにさせられることもなかった。

ある晩遅く、私は終電に乗るため歩いていた。
その日、取り立てて酷いことがあったわけではない。いつも通り同僚が嫌味を言われる横で、ただいつも通りに息を殺して働いただけ。なんだかとても疲れていた。
駅までの道は飲み屋街だった。ふと見ると、すれ違う人はだいたい酔っ払いで、陽気にはしゃいで見えた。
擦り切れたボロ雑巾のような体を引きずって歩いている自分が惨めで可哀想な気がして泣けてきた。顔をくしゃくしゃにして、泣きながら歩いた。

その当時は、自分が入稿した広告を街で見かけるのが怖かった。
何かミスを見つけてしまうかもしれないから。
「早く掲載期間が過ぎ、何事もなく終わりますように」と願って目をそらした。仕事への誇りなど、ありはしなかった。

一年半くらい経った頃、大手アパレル企業の仕事で、めずらしく打ち合わせに同席させてもらうことがあった。
私は下請けのスタッフという身分で、上流のクライアントと面会するのはめったにないことだった。
アパレル業界だけあって、クライアント企業の担当者はおしゃれな女性たちだった。
一方私は、シャワーを浴びて着替えただけのボロ雑巾だった。
担当の女性たちは、提示されたデザイン案を見て「いいですね」とか嬉しそうに話し合っていた。
私にとってそのデザイン案は、まるで雑巾の絞り汁を塗り込めたもののように思われた。怨念の塊のようなものが無邪気に喜ばれている。まるで遠い世界の話みたいだった。

そのアパレルの仕事が忙しくなり、とうとう会社に5連泊した。
いちおう三日目には服とシャワーを近場で調達したが、きっと臭かっただろう。
キラキラした洋服の広告を作りながら、作っている人間は臭くて着替えすらできないなんて、なんだか滑稽だった。

5連泊は最長記録で、ようやく「辞めていい」理由に思えた。とにかく休みたかった。
社長に辞めたいと伝えると、色々配慮してくれて職場環境が変わることになった。
あちこちに掛け合ってくれて、別のアートディレクターの仕事を受けるようになり、雰囲気もずっと良くなった。それで早く帰れるならと、辞めずに続けることになった。

恐怖政治が終わり、ミスに怯えることもなくなった。前よりいくぶん小さい規模の仕事で、デザインの裁量を任せてもらえる範囲は広がった。
残業が減り、徹夜は入稿前くらいで済むようになった。ありがたいことだった。
2年前の自分だったら、きっと大変でも頑張ろうと思えるような楽しい仕事だっただろう。
でもそのときの私にはもう、燃やせる燃料が残っていなかった。
19時を過ぎ、コンビニ弁当を食べてからもうひと仕事という時間帯、2万円くらい払ってもいいから帰らせてほしいと毎日本気で思うようになった。
燃え尽きた雑巾にはもう火がつかなかった。ただ長いお休みが必要だった。

そうして辞めて、広告業界とは遠く離れた。
データチェックの派遣社員を経て、結婚して二人のこどもを生み、地元にUターンした。

思えばもう10年以上も前のこと。恐怖政治はほんの2年足らずの経験だった。
それでも私はもうずっと、ヘンテコな呪いを抱えてしまっている。
ひとつは、デザインへのこだわりや徹夜の話になると、無駄な自分語りをしてしまう「老害の呪い」。
もうひとつは、心を動かす素晴らしい広告表現を見ても、現場には擦り切れながら働いている人がいると思えてならない「ボロ雑巾の呪い」だ。

いまこうして思い出話をつづっているのは、呪いを吐き出すリハビリのようなものかもしれない。

いまでは地元のウェブ業界で、面白おかしくたくましくやっている。
地元のデザインコミュニティや職場で気さくに話せる仲間に出会い、救われている。
冴え渡るデザイン力はなくとも、手堅い労働力として、それなりに重宝されていると思う。
派手さとは無縁の仕事。それでも、いただいた仕事にやりがいを感じる。ただ、いまだに高いクオリティを求められる気配があるとプレッシャーに感じてしまう。これも呪いか。

まだまだこれからも挑戦したいことがたくさんあるし、きっともっと進化できると思っている。
ときどき顔を出すヘンな呪いとうまく付き合いながら、自分の人生を好きなように選んでいきたい。

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